GALLERY ETHERでは、2022年8月6日(土)から8月27日(土)まで、日本人アーティストSAKI OTSUKAの個展『MONSTER』を開催いたします。
本展覧会の開催に際し、初日の8月6日(土) 17:00より、GALLERY ETHERにてSAKI OTSUKAを招いたオープニングレセプションの開催を予定しております。18時からは、SAKI OTSUKAによるライブペイントなどのパフォーマンスも行われる予定です。
SAKI OTSUKAは東京出身、様々な分野で活躍するアーティストです。「生」はわれわれ自身の創造物であるという信念のもと、女性であることをテーマに制作をしています。
本展『MONSTER』では、それぞれ個別に展開し互いに関係を持ちながら、制作を続けている3つのシリーズ作品を発表します。SAKI OTSUKAはこれらの作品を通して、過去のトラウマ、残存する痛み、スティグマを露わにし、向き合おうとしているのです。
彼女が3年ぶりに手掛けるインスタレーション作品『MONSTER』は、写真の上に、絵具や引っ掻いた痕跡で記された、または縫い付けられた文字が施され、それらを空間全体に配置したインスタレーション作品です。今そこにある「自己」や「アイデンティティ」の多義性を、過去との響き合いの中で内省するこのインスタレーションは、「内なる」セルフ・ポートレートと言い表すこともできるでしょう。
進行中の「カラス」シリーズでは、自身の幼少期における思考や記憶を深く探求し、拡大し続ける利己的な人間社会の内外で、必要性と生存の本質について反芻しています。
もう一つの継続している写真シリーズ「棘山」では、トラウマと人間の本質というテーマが集約されています。人間社会の「棘」に侵された自然と、「見えない棘」に侵された私たちの過去が、無表情で不穏な予兆を感じさせるランドスケープとして表現されています。
本展覧会は、SAKI OTSUKAが長年撮り続けているカラスと棘山、セルフポートレートなどの写真を中心に彼女自身が製作したエッセイを軸に構成される個展であり、展覧会やエッセイについて彼女は下記のように話します。
作家コメント:
「MONSTERや棘山、カラスはずっと撮り続けているシリーズです。私の内面の自画像であるMONSTERは3年ぶりの撮影でした。今の内面を表したMONSTERは少し進化しています。棘山やカラスは古い記憶と幼少期の思いから。会場では写真だけでなくカラスを描いた絵画やドローイングやインスタレーションもエッセイと共にお楽しみ下さい。」
「私の作品は過去の記憶の痛みから作られています。あの頃の痛みは未だに私に刺さり続けている棘のようです。私は自分に何の棘が刺さり続けいるのか自分の記憶を書く必要があります。目に見えない棘を見える棘にすることは、私自身の存在の曖昧さを消し去れる強い力です。」
「MONSTER」
私の中にはモンスターがいます。
モンスターと私という人格は別の生き物で、私の分身ではありません。
私と共通しているのは「私」の肉体に存在しているということと、私と同じ記憶を持っていることです。
記憶というのは人格を作る上でとても重要なものです。私たちは同じ記憶を持って同じ時間を過ごしてきましたが、同じ感情を持ったかは分かりません。
モンスターには人間のような感情はないのだと思います。モンスターは私が抱いた感情から自分が何をすべきかを考え、まっすぐに突き進みます。
私がどうなろうがお構いなしのところがあって、自分の行動のせいで私がさらに困難な状況になっても仕方がないことだと思うようです。
モンスターのエネルギーはあまりに強くて私は負けてしまいます。私は自分の意思をなくすことに慣れていますし、モンスターの意思に合わせることに慣れています。私はモンスターが現れたとき私を消してじっとしています。
私の中にはモンスターがいます。
モンスターは私を突き動かし私を操ります。私は大人しくいうことを聞くことしかできません。
私たちは同じ「私」という人間の中にいる仲間ですが、モンスターの力は強くて、私は抵抗することができません。
モンスターの要求が強すぎるとき、私はやめて欲しいと頼みますが聞いてはくれません。モンスターにとっては私の感情の記憶だけが全てで、私の現在の感情には無頓着なようです。どんなときでも強い力で私を突き動かして強引に道を進みます。私は支配され夢中で歩きます。私は次第に私をなくしていき、ただ必死に言われるがまま歩き続けます。モンスターが私を支配していくとき、私は私を失っていく感覚があります。
あるとき、私は完全に私を失いました。私の中に私は存在しなくなり、モンスターしかいなくなってしまいました。
モンスターは私を探しに行きました。すごく大きな力で私の中の私という人格を探しました。しかし、もうどこにも私はいません。
私はどこかに私を置いてきたのかもしれません。
私はどこかに私を忘れてきたのかもしれません。
私はどこかに私を捨ててきたのかもしれません。
私の中にはモンスターだけが存在しています。
モンスターは私の代わりに私を動かし続けている「私」という人格を知っている唯一の存在です。
私はモンスターに私を奪われたのかもしれませんし、モンスターに身を任せるしかなかったのかもしれません。
モンスターは私を守るために私を消してしまったのかもしれませんし、私をずっと探し続けてくれているのかもしれません。
モンスターは「愛しい私」です。
「嫌われ者」
1990年代に起きたカラスとゴミ問題で、テレビはそのカラスについて過剰なほどに危険だとか凶暴だとか、カラスの攻撃性についての報道をしていたと思う。そのころ小学生だった私は身近な存在だったカラスが突然”害”と言う強烈な文字でカテゴライズされているのを知ったとき、ひどくショックを受けた。テレビでは「厄介者のカラス」「カラスの迷惑行為」「カラスが人を襲う」などとカラスをこぞって悪者に仕立て上げた番組が並んだ。繰り返し流される映像の中で、カラスは人の頭を狙って蹴りを入れたり、低空飛行をし威嚇したりしていて、被害にあったと主張する人が怖かったとインタビューに答えていた。もちろんカラスにそんなことをされたら怖いのは当たり前だが、人間は何もしていないのに突然カラスに攻撃されたなんて言っているのを聞いて疑問を持った。
その頃の道路脇に置かれているゴミ置場には、まだカラス除けネットなんかは無くて、カラスが早朝ゴミを狙い群がっているのが日常風景だった。東京にいるカラスはハシブトガラスというカラスがほとんどでハシブトとあるようにクチバシが太いのが特徴だ。その太いクチバシはなんでも砕くことができそうなほど頑丈に見える。ゴミ袋なんてすぐに破ってしまうし生ゴミを器用に見つけ出し、そんなものまで食べるのかと驚くくらいに雑食で、どちらかというと肉食だと言えるくらいに肉を食べる。その姿は彼らの真っ黒すぎる外見もあって、ますます人々に恐怖心を与えた。ゴミを散らかすカラスを蹴ろうとする人、傘の先で叩こうとする人、そういうことをする人もいてカラスはそれに反撃して人の頭を蹴ったり、小石を落としたりしていたらしい。その様子が報道されるときは決まって「カラスが凶暴化」だの「人間を攻撃するカラス」だのという見出しが付けられていた。カラスにも繁殖期があって、子育て中の巣に近づかれたりすると威嚇するらしい。無遠慮に人間がヒナに近づいたらそりゃ怒るだろう。カラスを悪者扱いしている人間だって、カラスにとっては悪者ではないか。彼らを”害”だというなら、私たちだって”害”だ。
私にとってカラスは仲間だった。同じ街で暮らす猫やハトやスズメと同じ動物であり仲良く暮らしていると思っていた。そんな存在のカラスがある日突然”害”だと言われている、そのことが苦しくて心が痛い。まるでカラスだけを仲間外れにしているような感覚だった。カラスはその賢さまでも怖いなんて言われるようになっていたし、目が合うと人を襲うなんて噂まであった。そんなはずはないのに、テレビで繰り返し流されるカラスが人を威嚇している映像は人々の恐怖心を煽るのに十分だった。カラスへの仲間外れはあの時、エスカレートしていたと思う。まだテレビが主な情報源だった時代、テレビはゴミを道路に置く人間を悪く言うことはせず、カラスを悪者にした。
カラスはその外見から人間に悪い印象を与えるのだろうかと考えた。真っ黒い体は羽を広げると1mほどになり、確かに威圧感のある容姿である。でも、だからといって悪者に吊るし上げていいわけがない。人間は勝手なものだ。カラスは人を襲っているのではなく威嚇しているだけなのに、怖いからって被害者のふりをする。街は人間だけのものではないのに勝手に道路にゴミを置き、荒らされたと言ってカラスを嫌う。
未知なものへの恐怖心は拒絶を起こす。自分が仲間外れにされた時の痛みが嫌われ者のカラスに重なり、私は自分がカラスになったように感じていた。
「棘山」
東京から祖父母のいる田舎町へ行くとき、電車や車から見えるだんだんと都会ではなくなっていく風景を眺めるのが好きだった。ビルがなくなり都会らしさが薄れ、田んぼや山が見えはじめると鉄塔が現れる。その巨大さや田舎の風景との似つかわしさは私の中で気になる存在だった。
ふと、その鉄塔が山に刺さる棘に見えた。
山は自然にあるもので地球本来の姿だ。でも、鉄塔はあとから人間が刺した棘だ。
生きるために私たちは自然を壊す。どうしてそうじゃないと生きられないのかと棘を見るたびに私にも棘が刺さる。
山は自分のこんな姿を望んでいるだろうか。
鉄塔が刺さっている自分の姿をどう思っているのだろうか。
棘が刺さった山は痛々しく、怒りを表すように沈黙している。